職業病か「機械が獲得する知性」に興味があるのだけれども、最近立て続けに「人工知能」の記事を読んだ。
人工知能は幸福で息苦しくなるような刹那の夢を見るか?〜NHKスペシャル「NEXT WORLD」を見て。
人工知能がヒット予測する音楽サービスMusic Xray
人間は不要に? “人工知能社会”の行方 - NHK クローズアップ現代
労働が機械に取って代わられる=ヒトが要らなくなる、という論調が
希望的観測をもって、もしくは絶望的観測をもって語られるようになった。
クリエイティブ願望の強い人間には福音を。
それ以外の人間には途方にくれるような未来を。
人工知能は日々発達し、自律的学習能力を人並み以上に身につけるのも、時間の問題だろう。
ヒトは誰にとって要らなくなるのか。
社会からか、経営者からか。
労働による対価を得る、以外の社会運営や生き方を考えなくてはいけないか?
「要らない」なら当然ヒトは減っていくだろう。
ヒトが増えるのは、社会的な価値としての「労働力」「一族の構成員」「財産的価値としての血縁者の増大(一族の栄誉ってやつですか)」という背景があって、「生むことが奨励され、生まれることが喜びをもって受けれられた」からだ。
社会の暗黙の了解によって、自覚的にも、無自覚的にも。
今や子供が生まれるのは、「成人男女カップルの個人的なイベント」になった。
いいか悪いか、ではなく結果として。
「人間にしかできないこと」をできることが重要
「人間にしかできない」ことってなんだ
もともと単純作業だって「人間にしかできない」仕事だったはずだ。
ねこの手も借りたい時に、本物のネコの手は役に立たないみたいに。
人間がやってきた大半が、プログラミングに変換可能な単純な活動だったから、機械に取って代わられるようになったのなら、「肉体的労働」の代行としての機械、人間の知的活動は制限されない、で済むだろう。
しかし、音楽による「感動」まで計測しヒット曲を予測してしまう、っていうのはなんだろう。結局「こころのはたらき」さえ、数値変換可能な単純明快な指標に置き換えられてしまうのか。
人間にしかできない、こころあるクリエイティブな活動、とその「感動」もそのうち機械に取って代わられる未来も、そう遠くはないのかもしれない。
大抵の人間は、牛や鳥は殺せても、チンパンジーはそう簡単にはいかないだろう。
少し人間に似ているし、何より絵を描くことができる。
もし魚が絵を描いたとしよう。
何を考えているのかは解らなくても、絵を描く動物は殺し難くなる。
感情があるのではないか?直感的に僕達はそう感じるはずだ。
表現するということには、それくらいの価値がある。
ブラックボックス化された独自の判定基準によって、発展に必要な苦悩と対立が減少してしまった。表現することを侮るようなやり方は、やがて社会に致命的な停滞をもたらす。(『Psycho-pass』新編集版 4話)
ヒトは「社会的発展」を推し進めるあまり「生き物としての進化」を停滞させる方へ舵を切りつつあるのかもしれない。
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